石の里ということ

庵治石むかし物語

すとん君 えっへん! このコーナーは、「庵治石むかし物語」ということで、 僕のおじいちゃんに登場してもらいます。 始めははずかしがっていたおじいちゃんを無理にひっぱって きてしまったけど、おじいちゃんよろしくね。
いやー、わしはこんな公の場はすかんのやけど、 孫の「すとん」に泣きつかれ、 今回は皆さんに「庵治石の歴史」について お話させていただくことになった。 田舎もんのじじいのお話と思って、気軽に聞いてな。 おじいちゃん

さて、庵治石の歴史は非常に古くて、京都男山の石清水八幡宮の「建武回録記」という古文書の中に次のような記載がある。

1339年(暦応2年)この八幡宮の宝殿、弊殿、拝殿の再建にあたり、石種30種余、箇数5000箇余りの切石が使用されたが、これは前例にならって、検校職(お宮の事務を総管する役)をつとめる田中殿の所領地讃岐の国から送り込まれた…

一方、田中家文書によると、平安末期から南北朝、室町時代にかけて中讃岐草木の庄、牟礼の庄(現在の大字牟礼大町)一帯が石清水八幡宮の荘園であったとされておるから、この再建のための石材に「庵治石」が使用されたと思うんじゃ。つまり、庵治石は平安時代後期から採石使用され、遠く京都までも送り出されていたわけで、およそ1000年の歴史の中で注目を集めていたと言えるのう。

また、当地域での庵治石製品加工の発祥は今をさかのぼること650年、石清水八幡宮の再建時と思われるが、工法作品等斬進的なうつろいは1814年屋島東照宮造営の頃と言われておる。それまでも牟礼、庵治に石工はおったが手不足のため、和泉の国より石工を呼びよせたそうじゃ。任務を終えた彼等石工達は現在の久通り附近に住みつき、この地で自らの業を立て始めたが、この頃からすでに石材産地としての胎動があったんやなぁ。

へー、知らなかった。僕たちの歴史は古いんだね。おじいちゃんは詳しいねぇ。

わしも、わしのじいさんから繰り返し聞いた。

さて、続きじゃが、時代は明治に移る。この頃は「庵治石産地」としての基礎づくりの時期となった。 当時は、社寺建築、供養塔等に数多く見られる石造り石彫刻物は、注文を受けた石工が自ら山へ足を運び、原石を採堀し加工をしとったが、時代の進展と共に採石と加工が次第に分業化され、丁場師と呼ばれる山石屋と、仕立師と称される加工石屋とに分かれて現在に至ったんや。

大正より昭和の戦前は「庵治石」発展の時代やった。花崗岩の中でも特にかたい「庵治石」を見事に製品化する技法を得た石匠が、その技によって刻みあげる石彫品は、「庵治石」と共にその名を全国に輝かしたんじゃ。戦後は苦しい時代じゃったが、食糧事情も徐々に緩和され一般庶民の生活もようやく安定し始めると共に、灯籠、墓碑等の要望も増加していった。昭和35年頃になると、石材切削機が作製され従来の石材加工に大変革をもたらした。更に、研磨機、切削機ともに自動化が図られるようになり、石材加工業の製品過程に専門分野が考えられるようになり、必然的に著しい技術改良が進んだ。

現代は、石匠が年月を経て身につけた技術を思うがままに発揮できる時代で、益々「庵治石産地」として発展しているところじゃ。

ふーん。いろんな歴史の積み重ねの上に僕たちは立っているんだね。庵治石の歴史を知ることは僕にとって自分のルーツを知ること。この土地に生まれた以上、僕もここの歴史を伝えていけたらいいな。今日は、おじいちゃんをちょっと尊敬しちゃった。

江戸時代後期の屋島・八栗山付近の様子